ミズノワの電気通信 ピカリ!

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講師紹介001「レジェンドと呼ばれるまで」Part1(全3回)

  • 講師紹介
  • 2019.12.19

今の電気主任技術者に必要なことはレジェンドの経歴の中に…
眠っている!

~ レジェンド高田の濃厚な経歴 ~

大阪に電気業界のレジェンドと言われる人がいる。その経歴がものすごい。

電気科高校で電気工事士2種工業大学在学時に電験3種2種を取得。
卒業後は一流電機製造メーカーにいき設計部に勤務。
数年後には電験資格所有を見込まれ世に出始めたキュービクルの設計を担当する。

しかし設計だけでいいものかと疑問を感じ、会社を飛び出し鉄鋼会社の電気主任技術者となって現場へ出る。
会社に求められ電気に限らず建築、水道、ガス、危険物など様々な資格を取得。
目指すはパーフェクトな技術者。

時代は変わり業界の衰退はあるけれど電気技術者であることは変わらない。

製紙工場、電算センター、保安協会からの委託個人会社… 
ようやく定年を迎え現場から離れるが、次は資格試験の研修講師への道へ… 
そこでも電気通信施工管理士の研修を日本で初めて行うパイオニアとなる。

そして、来年は大阪から東京へと研修事業を拡大させていく計画を進行中と、今もなお働き続ける…


そんな未だに現役のレジェンド高田さんをカフェジカに迎えお話を聞かせてもらった。
経験者が語る業界のリアルさと、電気技術を持っていることが移り変わりの多い社会の中で、どれだけ役に立つことか。
レジェンドの経歴を聞きながら、今の時代でも電験資格取得者が生き抜くたくさんのヒントを見つけた。


レジェンド高田の経歴から探る
電気主任技術者が現代を生き抜く10のヒント
(前半)

目次

1  電気業界を目指した理由と、同世代とのギャップ

2  電験を持っていたからこそ出来たこと

3  「受電設備」キュービクル時代の登場

4  設計者としての疑問、パーフェクトな技術者への願望、湧き出す向上心

5  コネクションを生かし鉄鋼企業の電気主任技術者デビュー





1 電気業界を目指した理由と周りとのギャップ

――― 電気業界を目指した理由を教えて下さい

もとを正せば明治生まれの親父がですね、私が中学生時代から「ゆくゆくはエンジニアになれ」と言ってたわけです。再三「手に職をつけなさい」とも。だからいずれは自分も何らかのエンジニアになろうと思ったんです。そして当然ながら工業高校を選択したのです。そうするとその工業高校が一番優秀な人材がそろってるという、大阪市立のさる工業高校の電気科へ受験したわけです。幸い合格して、そこから電気屋としてのスタートとなったのです。

――― 色々な職がある中で、何で電気を選ばれたんですか?

これも父親からの「電気がいいだろう」との勧めがあって、たまたま入学したわけです。でも今思えば中学生時代ですね。発端はハンダごてでつくるとラジオになるキットが流行ったんですわ。ただそれは電気自体何もわからずにおもちゃのキットという感覚でやってたんですが。それがルーツになるんだと思うんです。

――― 中学生の頃から電気に興味があったんですね。

それで、高校電気科に入ったんですが、当然ながらみんな学友全てがね、電験3種を将来目指してる人だろうと思ったんです。でもあまりそういう意志じゃないんですよ。私だけが浮いてる感じがしてね。「どうだろうかな」と思ってました。でもとにかく電験3種を目指そうと思いまして。で当然ステップアップを考えて、当初は電気工事士目指したわけです。工業卒業間際に電気工事士を取得して、そこから電気工学科の大学に入って電験3種、大学卒業時には電験2種と猛勉強した取得した次第です。

――― 今の学生の子たちも、同じような状況だと思うんです。自分は電験3種を目指しているけど、周りはそうでもない… いつの時代も変わらないんですね。結局は自分が決めた目標にむかうしかないんですね。


2 電験を持っていたからこそできたこと

工業大学卒業後、電機製造メーカーに就職しました。当然新入社員としての研修を受けてですね、2年か3年後に、技術部設計課に配属されて、主要機器の設計業務に担当されたわけです。それまでは井の中の蛙ですわ。

――― 井の中の蛙?

要するに企業の中でちまちまと上司に言われたスケジュールに合わせて、設計業務しているだけです。当時の設計業務というのはマニュアル通り数値を上げていけば製品ができたという業務でしたので、慣れてくると物足らなくなって。「こんなことでいいのかな」と。そういう過程で10年程やってきたわけです。でも何か物足りない。こんなことで技術者としてやっていけるのかなという不安みたいなものが出てきたわけですよね。定年までいけたらね、そら係長から課長とそういう方向もあった訳ですよ。お風呂に浸かってのんびりできるような毎日だったんです。営業から持ってきた仕様に合わせて数値に出し、それを現場に流し、製品できたらそれが発注もとに送られて、どういう運転をされてどういう使い方されてっていうのが全く分からない。ただ机の上で数値をはじくだけ。そういう生活でね。「電気屋としてこれでいいんかな?」という疑問が少しずつ出てきたわけです。会社の上司にも「こんなんでどうでしょうか?」とか、時として会議でも「将来性あるんでしょうか」ということを漏らしとったんです。

――― 思いをハッキリと伝えていたんですね。

ところが人間、人生っていうのは面白いもんで、そういう不安っていうのが上層部に上がっていったみたいです。係長から課長部長を通して役員の方へ少しずつ上がっていったみたいです。そうするとですね。ある時に、上司からよばれて、「一つ新しい分野で活躍してほしい」と。「幸い君は電験もあって」と。当時電験持ってましたからね。「ぜひ新しい分野で企業の拡大を図ってほしい」と言われたんです。

――― 思いを伝えていたことに加えて電験を持っていたことがステップアップにつながったんですね。

3 「受電設備」キュービクルの登場

その当時、電気主任技術者という業務は、企業の電気変電室の保安管理が主な仕事でした。電気変電室というのは、だいたい工場ですと、敷地の一角に屋内型で設置されていて、ビルなんかですと、スペース節約するためにほとんど地下に開放型で作られておったわけです。そういう時代から少しずつキュービクルの時代に入ってきてたわけなんです。だから、先進企業として東芝さんとか日立さんとかね、少しずつキュービクルを世の中に出してきたわけですわ。京都ですと日新電機さん。上司に「一つキュービクルを設計してくれんか」と言われて「え?」って思いました。でも確かにキュービクルですとね、これからの時代に有望な仕事になるだろうという、そういう知識もあったもんですから、じゃあパイオニアとしてですね「やらして下さい」と。私と含めて二人ほどで当初、スタートしたんですが、全くなんの資料もありませんから、他所からですね、ベテランの人を呼んで、その人の指導で始まったわけなんです。そこでキュービクルというものに初めて私たちが接触したわけです。

――― 作る側として接触したわけなんですね。

そうなんです。だから一から指導を受けて、キュービクルの外形、箱から箱の設計から、スタートしたわけです。

――― 今のキュービクルの礎を作ったと言っても過言ではないですね。

それで後年、その企業においてはね。標準化をしようということになりました。いわゆる2面タイプのものをJIS化しようということです。それが私のその企業での最後の仕事だった。だから晩節を汚すことなく、いい仕事を残して最初の製造機器メーカーを終了させてもらったんです。

――― 今当たり前にあるキュービクルはこの時代にできたんですね。

4 設計者としての疑問、パーフェクトな技術者への願望、湧き出す向上心

まず設計していた当時のキュービクルというのは2面体です。その外形から骨組みから全部図面起こして、中の配線結線図、配置図と。

――― 今よく電気工事士でよく試験にも出てる配置図ですね。

その配置図から全部設計して、それをまた製造部門に流していました。製造部門も新たにスタートしたんですがもちろん営業部門もできました。ただ営業は回った時に、受注するにあたっては技術打ち合わせ、仕様打ち合わせがいるわけです。でも営業部門の人は、全く無知ですから、その営業担当者と一緒に発注先のお客さんの方へ私が絶えず呼ばれるようになったんですよね。

――― 今まではオープン方式が多くて、それをキュービクルに変える時期やったってことなんですね。

それからビルの新設もありました。ビルは地下を駐車場に利用していく、そういう時代に入った訳です。そうするとキュービクルが屋上ということになって、これがどんどん売れだした。

――― 地下室が駐車場になったりとスペースが有効活用されてきたんですね。

まあ、そうして私が先方に行くと、相手は主任技術者がいらっしゃるんです。そうして技術的な打ち合わせをする。ここで私は大きな岐路を迎えたわけです。何でかと言うとですね、私はキュービクルだけを設計して、それから発注して納入された後、どういう使い方をされるかは全く無知だったんです。すなわち現場に行かずにキュービクルだけ設計していた。キュービクルの仕様は、トランス使用料いくら、遮断器いくら、ブレーカーヘいくらと先方の主任技術者さんから頂いて、それを元に私は設計しているわけです。

でもそれじゃ変圧器がどういう使い方をしているか、どういう負荷を使ってるかはね、全く分からないんです。だから質問頂いた時に恥をかいた時もたくさんあるんですよ。この負荷設備で、このブレーカーでどうでしょうかというような質問があった時、設計できるけども運転時の負荷状態というのは全くわからないわけですから答えられない。そうした時にこのキュービクルの設計だけでは終わっていいのかどうかという疑問が出てきたんです。

――― そこって設計だけだと、なかなか知りようのない所ですよね

だから、全部知りたいと。要するにパーフェクトな技術者になりたいという願望が沸いてきたわけです。そのうちにこっちが忙しくなってきて2面タイプから3面タイプ4面タイプと受注が入ってきたわけです。そうするとそのうちに特高受電が入ってきたんです。2万2000Vや7万Vとかいう。だから10面15面という仕様設計をしなければならない。そこまでやってきた。それで現場打ち合わせすると、負荷設備が複雑になってくる。膨大な情報が出てくると全くお手上げですわ。先方さんの主任技術者さんだけじゃなしに、負荷設備の現場の技術者も入ってくる。そういう人たちとディスカッションする中で、ますます自分自身が無知であるということを痛切に感じた。これではいかんなと。

特高受電、それもたくさん発注、受注する設計する。現場で組み立てる、ばらす、現地で組み立てる。組み立て作業に駆り出される。組み立て作業終わると当然受電が入ってくる。受電は先方の主任技術者さんのエリアですけど、特高受電になりますと主任技術者さんから設計者も来てくれと言われるわけです。というのは特高受電になりますと、経済産業省から役所の担当者が入ってくるわけですから、やはり設計者も来てもらいたいと。そうするとですね、主任技術者さんよりも設計者の私の方に色んな質問が入ってくるわけです。ますます知識の不足が明らかになってね。こんなことでいいかなという疑問がますます出てきたわけですよね。

そうこうすると外部に出てくる機会が多いので、色んなコネクションが出てくるわけですよ。発注元の担当技術者と負荷設備の技術者さん、そういったたくさんコネクションがつながってくるとね、もっともっと勉強しないとという、現場への志向性が高まってきたんですよ。で、10年ほどすると、今度はキュービクル設計自体が標準化してきてマンネリしてくる、パターンが決まってくるわけですよ。

――― そうすると、ふつふつと自分なりに何か向上心が出てきたわけですね。

5 コネクションを生かし鉄鋼企業の電気主任技術者デビュー

そうした日に突然、仕事の上で知り合いになった大阪の電気工事屋さんから、ある鉄鋼企業さんがですね、当時は高度成長の真っ盛りでしたから、規模の拡大を図りたいと。今の敷地の倍くらいに拡張すると。現在は特高6000Vで受電しているけれども当時は1000kw超えると特高にしなければいけなかったんですよ。

――― 今は2000kwですね。

まあ特高受電に2万の変電所を新設しないといけないと。それでさっきの電気工事屋さんから、主任技術者やってもらいたいけどどうだろうかと打診があった訳です。そこで考えましたね。これは一つ分岐点でした。今のぬるま湯の企業におればね、定年まで何の心配もなしに生活はできるんですけど、思い切って世間に飛び出そうという。そこで決心したわけです。「退職します」と。それは引き止められましたわ。だけども広い視野で勉強したいというそういう意志を伝えて、思い切って退職したわけです。

それでいきなり主任技術者の現場に入って、そっから今度は開放型の特高設備の計画から入った訳です。配電業者の担当技術者と打ち合わせから始まったわけです。キュービクル時代でもパターンは分かってますから、計画はスムーズに進んで、そっから敷地は確保されてましたから、土木作業からですね。完成に半年ぐらいかかりましたけど、受電は私が主任技術者の立場で経済産業局の担当員に来てもらって、いよいよ通電立ち合いですわ。まあ初めての経験です。

――― 今では設計として立ち会っていたのが、今度は技術者としてですね。

そっから現場のスタートです。

――― 主任技術者には何歳ぐらいになられたんですか?

35,6歳ですね。そこから、いよいよ現場。ビルメンテナンスに入ってくるわけです。当時は現場一筋で、工場建設から数棟工場を新しく建てたわけですよ。その建設から全部主任技術者という立場で、動力課長という名前をもらって部下二人付けてもらったんです。工場新設に、もちろん特高の受電設備のメンテナンスもやりながら、数棟の工場の作業に入った訳なんです。2年ほどかかって、全て建設が終わって、全てが順調に稼働していったわけなんです。あとは日常のメンテナンスに入るんですが、その中で色々な日常な業務は主任技術者には毎日トラブルが入ってくるわけですよ。そうするとペンチドライバーぶら下げて、現場毎日回り作業したわけなんですね。時には高所作業と言って、鉄鋼の上に上がってクレーンの修理したり、まあ色んなことをやってケガもしましたし、怖い目もしました。

そうこうするうちに第1次石油ショック第2次石油ショックが入ってきた。そうすると造船が下火になり、造船に伴う鉄鋼業まで下火になってきたわけなんです。そうするとですね、おごる平家久しからずで、だんだん工場が不況になってくる。当時でいう人員整備。そうすると工場の稼働率がグッと下がってくる。仕事が減ってくるわけですよ。私の大きな転機がやってきたわけですよ。主任技術者というのは変電室がある限り必要ですからクビにはならなかったです。一定の報酬もあって生活は安定していて、仕事自体は何にも生活の不安っていうのは何もなかった。だから特高受電が変電稼動している間はね、当然人員整備の対象になりませんから、ただし仕事の上で、葛藤が出てきたわけです。仕事が減ってきたわけです。変電室のメンテナンスと工場のメンテナンスぐらいで仕事が減ってくるんです。またそこで次の転機が来るわけです。これではいかんなと。まあ色々あるわけです。そうしておりましたらですね。

――― 次は何があったんですか?

(後半に続く)


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